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| 2011 年11 月4 日修達会にて |
元始まり
先生に初めてお会いしたのは、1995年の9月でした。大学を卒業し、営業職についた私は、その月同期では営業成績も一番に
なり、絶好調と思っていた矢先、心のバランスを崩し、周りにも迷惑をかけ、奈落の底につきおとされていました。
高校生の頃一度バランスを崩してから、2回目の出来事。そんな時、いつも助けに走ってくれて救急車のような役割をして くれていたのが、叔母である大和紀子修達夫妻でした。その時も祖母の自宅で伏せっていました。私の枕元で、祖母と叔母
が心配そうに話をしてくれていました。そんな時、『そうや、松川さんに電話してみよう!』と言って、叔母が電話をかけ てくれました。そして、私の身上を話し、受話器を向けられました。『お話ししてごらん。』と言われ、代わってはみたも
のの、松川先生の存在さえ知らなかった私は、『一体誰?何?』と、恐る恐る受話器をとりました。『もしもし』『あー名前は?』と聞かれ、小さな声で答えた私に先生は、『君はもっと大きな声で言えるやろ』と返されました。内心『何やこの人・・・』と少し腹の立った私は、しんどいながらも出せるありったけの声で、名前を叫びま
した。そうすると、『あーもう治った。大丈夫や、ほなね。』その電話はそれで終わり、私と先生の出会いの会話でした。
電話を切って、頭の中にハテナマークがいくつも浮かびましたが、何となくスッキリとした気持ちになったことを、今も忘 れられず覚えています。そして、それからは毎月集う人達のために東京から帰って来て、お話をして下さる先生にお会いしたい、ただそれだけの思い
で、その日を心待ちにしていました。それが、先生と出会わせて頂き、その後長い年月をかけてお神という存在を身をもって知り、共に歩ませて頂くきっかけと
なった出来事でした。
お役目
それからも、バカな私は、お神が示して下さる道に気づかず、幾度となく、壁にぶつかっては倒れ、また新しい壁を自分で 作っては倒れていました。
そして転機が訪れました。毎年行われていたスキー教室に参加させていただいた時、子どもたちと楽しそうにしていた私を 見て、先生が、「うん、お前は子どもやな、子どもがいい。」と言われたのです。また、ハテナマークがたくさん頭に浮かびました。その時にどういう意味でしょうとお聞きすればいいものの勇気がなく聞けず、言葉だけがずっと頭の中に残っていました。
そして祖母が出直し、孫たちにと少しずつお金を残してくれました。ブランドもののバッグでも買って、一生祖母の思い出
として大切にしようかなどと考えていたとき、ふとあのときの先生の言葉がよみがえってきました。そして何となく、子ど もと関わるために資格をとろうと思い、貴重なお金を、教職をとる為の保育学科のある短大の入学金にあてさせて頂くことにしました。そこからのお導きは、今思い返しても申し訳ないくらい鮮やかなものでした。
心定めが確かなものになり、お役目であるということを何となくですが心におかせていただいたとたん、とんとん拍子に、物事はすすみだしました。
その後、教育実習でお世話になった幼稚園の園長先生から声をかけて頂き、就職試験もなく、就職先が決まり、あっという 間に私の先生生活が始まったのです。それから、結婚までの八年間、本当に素晴らしい時間を過ごさせて頂きました。毎日の仕事が本当に楽しく、一度も辞めた
いと思ったことはありません。
これがお役目だと、胸を張って言わせて頂ける仕事に就かせて頂けたことに、心から感謝の思いでいっぱいです。気付けよ と優しく声をかけて下さった松川先生、家族、支えて下さった全ての人達、そして何よりお神に感謝です。
と、この文章を書いているときに窓を見ると、空に虹がでていました。お神は本当に温かくいつも私たちを見守って下さっ ていると、また有り難い思いでいっぱいになりました。
あなたが私を思い信じているとき、
私もまたあなたを信じ思っていることを
忘れないように。
(020613)
これは私が好きな御神諭です。厳しきお言葉も多い中、優しさのあふれる言葉でときどき思い出しながらきました。これか らも、お神の大きな優しさの中で明るく楽しく健やかに生かせて頂きたいです。
母になる、そして母
2011年5月10日、13時58分、3666グラムの玉のような元気な男の子が誕生しました。名前は、私たち夫婦共に教師で、いろんな名前をたくさん見させていただいてきた結果、読みやすく、親しみやすい名前にということを念頭において考え「圭汰」に決定しました。
出産はもちろん初体験である私ですが、採血も怖いくらいの私です。予定日が近くになるにつれ、期待より不安のほうが大 きくなってきていました。そんなとき、「やっぱり痛いのかな・・・、怖いな」ともらした私に、主人が「朋美ももちろん大変やと思うし、不安やと
思う。でも、生まれてくる赤ちゃんはもっとすごい覚悟をしてこの世の中に生まれてきてくれるんやで。だから頑張って。 」と声をかけてくれました。確かに、大変な時代に自ら生まれてくることを決めてくれた頼もしい我が子です。私もその子
に恥じないようにしなければと、その言葉から不安や迷いは消えました。
そして出産の日。主人にお産に立ち会ってもらいたかったため、常々、お腹の中の我が子には、『お父さんがいるときに出ておいで』などと、勝手なお願いをしていました。
そして、陣痛が始まったのは、なんと私たちが希望していた日でした。それから13時間後、圭汰は、元気な産声を上げま した。
初産にしては安産で、助産師さんからは、『母子共に弱音を吐かない素晴らしいお産でした。』とお褒めの言葉を頂きました。約八時間もの分娩室で、主人はずっと励まし続けてくれましたが、もう一人私のそばでずっと汗を拭いたり甲斐甲斐しくお世話をしてくれていたのが、実母でした。
私は立ち会いは主人のみと、事前に産院にお願いしていたにもかかわらず、今思うとこれもお神のお計らいだったのでしょ うか、助産師さんが母にも中に入られますか?と声をかけられたのです。母は外で待っていようとついてきてくれていたの
ですが、あれよあれよというまに中にはいることになってしまいました。そして、無事に出産を終え、ドラマでは、きれい に涙を流し感動するシーンをよく見かけますが、実際は『終わった~』という安堵感でいっぱいですぐに涙など出ることはありませんでした。横で感動して泣いている主人に声をかけられ、その後、我が子を胸の上に抱かせてもらいました。そして、母におめでとうと声をかけてもらったとき、ありがとうと握手をしました。その時これまでの母への感謝の思いが一度にこみ上げてきて、涙があふれてきました。似たもの同士でよくけんかもしてきましたが、こんな思いをして私を産んでくれたんだという感謝の気持ち、そして、今まで母に反抗したりした自分への反省の気持ちなどが一度に沸き上がり、これからはもっと感謝しなければならないと、この年になり我が子のお陰で改めて気付かせて頂くことができました。
そして退院の日、数日続いたお清めの雨が上がり、快晴の天の気をお恵み頂き、実家のある奈良へと帰らせて頂きました。
その道中、住まわせて頂いている大津市の石山寺のそばを通りかかると、それまでは咲いていなかったつつじの花が満開になっており、まるで圭汰の誕生を産土様が喜んで花道を作ってくださっているようで、本当に有り難く感動しながら通らせて頂きました。
いつも心に太陽を
『先生は子ども達の太陽でした。』これは私が先生をさせて頂いていた間、保護者の方々にかけて頂いて一番うれしかった言葉です。お家の中で、妻は太陽、夫は月であるとお教えを頂いています。私も常々どこにいても人々を照らし続けるひとでありたいと思ってきました。もちろん、雲に隠され、陰ってしまうときもあります。でも、晴れのこない日はない!そう心に励ましかけ、これからも歩ませて頂きたいと思っています。
私の次のお役目は圭汰をしっかりと育てさせて頂くことです。
生まれて間もない子が、すでに周りの人々に勇気と笑顔をあたえてくれているそんな姿を見ていると、また圭汰に負けずより一層妙明楽に過ごさせて頂かなくてはならないと身が引き締まる思いです。まだまだ未熟な私ですが、これからも共によろしくお願いします。
絆
2011年は様々なことがありました。その中でよく聞いたキーワードが『絆』です。被災地でもたくさんの絆に感謝をしておられる姿を、テレビなどで拝見しました。
私達には自分の家族や友達のほかにも、いつも周りに温かく大きな家族がいてくれます。これほどに有り難く心強い事はありません。疲れていると何も言わずそっと肩をもんでくれる人、悩んでいると何気ない話をして、励ましてくれる人、そんな素晴らしい仲間がいます。そして、何よりいつもお神が私たちを見守っていてくださるということに、感謝の気持ちを忘れず、また 淡々と段々と お神の御本願のもと立ち働かせて頂きたいと思っています。
今年も残りわずかとなりました。一日一日をしっかりと納めさせて頂き、循環の年2012年を迎えさせて頂きたいと思います。
今年も一年ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。
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| 神原 朋美 |
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