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百に親というのは、親に100%責任があると言うことである。その前の文言は、子供の事情・身上は、で有る。だから、このお諭しは、子供の事情・身上は100%親に責任があると言うことである。
最近も、通学途中で右腕を骨折近くまでひびを入れた子供が運び込まれてきた。重傷である。医者に掛かれば3ヶ月はかかる。「おかみ」に預けても、1月は優にかかる。とても痛がる。可哀相なくらい痛がる。子供は低学年の児童にぶつかって右腕を痛めた。私はすぐに母親に責任があると思った。ぶつかった子供には何もなかったけれど、いずれぶつかる子供であり大難を小難に、中難を無難に収めていただいたのであろう。
問題は、激しくぶつかる行動をした当の子供が傷ついたという事実である。その子供は、母親のいつもの行動をまねて、低学年の児童にぶつかっていったのであろう。そうして、傷ついた。本来なら、母親にもっと大きな形で起きる事故であった。
母親は、子供に感謝しなければならない。そして、自らは自己の責任を反省しなければならない。「私の事故を、こんなに軽く納めていただき、ありがとうございました。息子の傷は、「おかみ」にお預けいたします。一日も早く、元にお戻しいただけますようお願いいたします。いたらない私をお叱りいただいたものと受け取らせていただき、これより決意もあらたかに、神一条の神仰生活をお誓い申し上げます。」これくらいのお礼と反省は当然であろう。
思えば、「おかみ」は色々な場面でご神意をお示しになられる。示された御神意を正しく受け取れるかどうかが、私達の幸不幸を分けている。
この場合は、息子の事故を通じて何をお教えになっているかを悟ることであろう。息子は、痛み止めを呑んだらいいという私のアドバイスにたいして、私の痛みは治っていく過程で、治りを早くしてくれる神の働きであるという諭を聞いているのか、痛み止めを採ろうともしない。
母親、父親は、痛がる息子を見て居れなくて、このままで良いのだろうかと右往左往する。私は、お医者に診せても、することは同じで、頓服を与え患部を固めるだけと知っているから、「医者で治るは、放っておいたら治る」というお諭しの通りでその確信は当の息子に伝わっているようだから祈るだけである。
右往左往するのではなく、御神意がどこにあったのかを反省して受け取らせていただくことが大切である。
私達は、不断に「おかみ」の庇護の元にある。その庇護を守護と言って良い。守護をいつも受け入れ、感謝し、報恩を旨とする態度が大事だ。事故が起きるのは、報恩の態度に表れる、祈念・感謝・反省が足りないと言うことである。
子供に現れる事情・身上は百に親とお教えいただく子供というのは、実際の年齢で15歳までのことである。中学生までを無事に富(ゆたか)に育てたいと心から思う。
親の責任は重大である。
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