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| 新生和子と幸せ |
子育て
右の写真は今年五月二二日に御引き出しをいただいた世里菜と母親の永尾友加利さんである。 八月二十日の神面式まで新生和子は神前はおろか連れ回すのを控えるがお諭しなれど、六月彼らの治療所の祈りに来て待合室の陰に控えていたのを撮影したもの。子供は誰でも可愛い宝なれど、父母の関係が幸せな赤ちゃんは見ているだけでこちらが幸せになる。いずれにしても、女九一日、男百日目に「おかみ」からお食い初めをいただいて、新たな人生が始まる。正しく神面を果たす赤ちゃんに幸せあれと願う。
子育てに一番大切なことは、父母の関係が幸せなことである。何かに事情で不幸な関係であったとしても、子供の前では、幸せであると言わねばならぬ。いずれ、父母の関係を子供は知る。その時、不幸な父母を知ったとしても、私のために幸せといった父母の思いのありがたさを知るであろう。
子供は、慈しみ、親の立派な行動生き方を見て育つ。だから、子を見れば親の姿がわかるというのです。
この母親は、喉癌に冒されて手術寸前をお助けいただいたのですから、「おかみ」を思う気持ちは並々ならぬものがある人です。ニューヨークへ、帰ったら手術という日に、南港で会いました。南港の広い場所で、「おかみ」に取り次いだのを今も覚えています。
やがて、和歌山に帰ってきた彼女は、子供を授かり、産みました。誰の子であれ、授かった子を人は産まなくてはなりません。その赤ちゃんは今彼女の父母の慈愛を受けて、すくすくと育っています。
問題は、母親です。父親に会いたいために、赤ちゃんを巻き込んでいます。父親も赤ちゃんが可愛くなり、赤ちゃんに会いたがります。それを見て、父親の奥様は、父親をなじり、携帯電話を取り上げてしまいました。それくらいしか、奥様には出来なかったのでしょう。父親には、子供もおり、奥様は、父親を頼りにしていたでしょう。彼女に父親を会わせまいとして、可能な手を打ってくることは、想像に難くありません。
父親は、奥様に子供が出来たといったと言います。そうすれば、別れてくれると思ったそうです。甘い。それにしても、赤ちゃんが生まれたことを、反省と共に喜んで受け入れるほど、奥様は成長していないし、別れるのはプライドが許さない方らしい。父親である旦那様との生活に甘んじるのは、別れたら生活できないと思ってのこと。父親は一流会社の部長クラスが受け取る程度の賞金を得る、競輪選手であることが災いしたと言うべきか。生活が出来ない廃業の憂き目にあえば、奥様も愛想を尽かすというわけだが、果たして、廃業の危機に陥り、晃月庵に彼女に連れられやってきた。
私は、廃業するのが一番良いと思った。しかし、それでは路頭に迷う人が出ると思い、また、赤ちゃんが駄目な父親を見なくてはならないと思った。それで、廃業の危機の原因をのぞいてあげた。
あらゆる医者にかかって治療をしてきた病が、一瞬にして去り、父親は何故かわからないという顔をし、狐か狸に欺されていたような顔つきであったけれど、年収一億円に挑戦しなさい赤ちゃんのためにと言う私の言葉に従って練習をし出したと聞きます。奥様には、毎月決まった額を渡して、金銭の管理を自分でちゃんとやると言うことが、プロの競技者の道です。彼女は、お金ではないと言ったけれど、プロの競技者の値打ちは、稼ぎにあると私は言い、このまま廃業クビの道を歩むのであれば、一番悲しむのは、赤ちゃんでないかと言いました。彼女には、会いたい気持ちはわかるけれど、会えないのなら会えないと言うことを受け入れ、赤ちゃんのために生きると言うことを期待します。それくらいのことは、赤ちゃんを授かったときに覚悟していなければいけないと思うのです。
祈楽苑・会堂とは
「私たちは、生まれたとき神様から百点もらって生まれてきた。もう一点しか残っていない。そんな人がたくさんいる。しかし、一点あるという事は、神様がチャンスをくれているのだ。そんな地点から、心揃えて頑張れば、また、二点になり三点になりきっと再び百点にもなれる。
その地点で、心得をただすこと無ければ地獄行き。わざと間違うなら終わり。しかし、失敗してもわざとでなければ、何回も何回も神様に謝れば許される。
家族の事を大切に出来たら次は周りの人、その次は動物や花や草、その次は地球。これが全部出来初めて自分の事をするようにしないと。
みんな自分の事は最後にしないと。」
「私達は、溢れるように恵まれています。
足りない人は心貧しき人です。溢れるように足りて与えられてあるというのが、私の実感です。しかも、元々全てが太陽(火)と川と海(水)の賜物で、お金が無ければ手に入らないような物ではなかったはずです。」
私の好きな話です。こんな話に満ちあふれる場所が祈楽苑です。
「点数」の話しは、こどもがしたおはなしをすこし一般的にしたもの。「足りない人は心貧しき人」は、若くして目の光をなくし晃月庵に六ヶ月滞在してくれたせきちゃんの話しです。
人間様が勝手に作り出した神やその神が怒ったところで、何の事はありません。相手にしなければいいのです。「おかみ」は恐ろしく静かな存在です。
人間様の行為が、神様としか言いようのない御力の思いにかなっているのであれば、問題はないのです。祝福されましょう。
ところが、人をたぶらかすためにする様々な言葉や行為、例えば、神の言葉として人を脅す、神仏の行為として、無知な人を誘い込むと言った事は、神様の怒りを買います。
神様の怒りを買うと、まず、神が退きます。
神様の護りが無くなりますので、邪なるもの魔なるものに思うように操られます。神様が吐く筈の無い言葉を吐き、また、神様がやるはずの無い行為を平気でし始めます。
私は、己を神や仏と言う人に何回も何人も会いました。私と会って、今もそのまま神や仏でありつづけている人はいません。
人の喜ぶ「おたすけ」はいくらでもさせていただきましょう。人の為に祈り、請われれば取次ましょう。
祈楽苑とはこのような人々が集まり祈る場、故に会堂というのです。
一方講社は、准之講社と一般講社、神社のような公開講社の区別を指示されています。私は、全ての講社が、伊達の伸二君や河和の節子さんのお心のように人々の丹誠を込めた場所として育っていくことを祈念しています。
自分はいま
神をないがしろにしている現代の受難者は子供たちです。世界中で子供達の嘆き悲しむ声がします。しかしまず私たちの子供を育てなくてはなりません。
厳しく楽しく活発に、真人の愛をもって三つ子の魂を大きく豊かに育む義務が親にはあるとおもうのです。三つ子の持つ神の魂を、それを育むべき親が、消し去ってはならないのです。
親神大神の厳しい仕込みと限りない愛のことを話したいと思います。
神となった多くの聖人たちがいます。彼らが歩いた道は受難の道でありましたが、それは、聖人たちに何をもたらしたのでしょうか。何故、彼らは受難を乗り越える事が出来たのでしょうか。
答えは一つです。
彼らは、神の限りない愛を例外なく知っていました。化身した神々の、愛のゆえの受難を知っているのです。ひな形を知るが故に受難を試練として受け取ることができるのです。
さらに言えば、試練を乗り越えさせるものが何かを知っていたからです。私たちの身近には、その様な人がいます。
神を希求するのであれば受難を恐れてはなりません。
厳しい時もありますが、「せいじんの道」を決意して歩むのです。その時、祈りを忘れてはなりません。祈りの中にある神との対話を忘れてはなりません。
厳しいお仕込みの中でもいつも神々の祝福の中にいるとわかります。
さて、来月八月は特別な祈りの月です。私達は正月の修正会、八月の日祈修会を特別な祈りの日としています。正月とお盆は私達の意識のゆえに特別霊的な時期であるからです。
日本人は、普段格別な思いを持たない人でも、正月になると神社仏閣に吸い寄せられるように参ります。また、お盆ともなると墓に参ります。これらの行動は、誰もが意識すると否とに関わらずもっている霊的な意識のゆえです。
霊的な存在は、見ようとしない限り見えませんが、多くの人はなんとなく感じているものです。空気は見えないけれどあるのと同じくらいに存在するのです。見えないけれども強い影響を持って私達を動かしています。
正しい祈りは、至高の霊的存在である神と呼ぶエネルギーと交感し交流する唯一の方法です。
祈りが神と共にある時、私達を包むのは聖霊です。
祈りが邪悪なものに向かっているとき、私達は悪霊の餌食になります。身体を汚し、心の使い方を間違う時も同様です。
だから心こそ自由な用い方を許された人間の道具です。この道具の使い方をただすのが祈りです。
あなたは今どのような心得で生きていますか。
心静かに「自分は今」と問うてみましょう。
良いですか
「晃月にとって一九九五年といえば、その前年九月天之御中主といわれた大エネルギーに秩父で出会い、このことが引き金となって東京に出ることを簡単に決心した途端、晃月を名乗らされる一方、東京で最後の会社経営に乗り出した年でした。
一九九五年一月一二日の誕生日突然声が聞こえて、晃月となるやいなや、「おかみ」のご指示に従って、月一回、東京から帰阪し神諭取次を始めました。これではしばらく大阪には帰れないなと思った矢先、母体としていた会社の行き詰まりが明確になってきました。
自宅は、その年(一九九七年)五月六日、晃月庵との命名を頂き、霊止の数霊の数6だけ、講社がまず生まれました。
当時から、心の壮大だけを考えてここまできましたが、これからも「おかみ」からのお与えだけを芯に、悪魔の仕組みの快楽に乗ることなく、乗せられることなく、淡々と段々と進まなくてはなりません。
世界はますます「業」が剥き出しになる時代を経て、激しく魂が選別される時代に進みます。
まさに、これからの「おかみ」のなす事を見定めて、妙明楽に皆さんが励まし合い、手を取り合って進むことを願います。
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