インドネシア訪問レポート
   去る昨年の11月13日(月)〜19日(日)にかけての7日間に亘り、「良心、市民の会」の代表の一人として、我々が災害復興支援しているインドネシアはスマトラ島の最北端にあるバンダ・アチェを訪問させていただいた。 11月度の本部修会で、詳しくご報告ができなかったので、遅ればせながらこのページを通じて、私が感じたありのままのインドネシアとアチェをお伝えさせて頂きたいと思う。

友との再会 〜そしてアチェへ〜
   第48回修養会明けの翌日の朝、関西空港から大韓航空でソウルを経由し、ジャカルタに到着。 日本との時差は2時間。空港では、オジアデが出迎えてくれた。 久々の再会に話が弾む。 その晩は、オジの自宅に泊めていただき、翌日、ガルーダ航空の国内便に乗って一路アチェへ、約2時間のフライト。 アチェの空港では、LCOのスタッフが、前回我々が援助した資金で購入したというバンで出迎えてくれた。
   挨拶もそこそこに、ボコボコで傷だらけ、泥まみれのPAC号(?)に荷物を積み込み真っ先に向かったのは、津波被害で亡くなった人々が眠る集団墓地。 まだしっかり整備もされていないこの墓地には、約4万7千人が埋葬されているということであった。 我々は、LCOスタッフのパワックと共に、イスラム式の祈りを捧げ、その後、簡略之礼第三を切って追悼の意を表した。
   その後、我々がアチェに滞在する間、宿泊することになるスルタンホテルへと直行。 小泉元総理クリントン元大統領も泊まったという、アチェでは一級のホテルということらしい。
   建物の外壁の塗装もハゲハゲで、ひどくくすんでいる。 「大丈夫なのか?」と思いながら中へ入る。ロビーの内装はまずまず、インドネシアの辺境の地にしては上出来といったところだろうか。

  ↓ 追悼の祈りを捧げる。   ↓ スルタンホテル。   ↓ ホテルの部屋にて打ち合わせ。
  ↓ 相変わらずのひょうきんなオジ。   ↓ 我らがPAC号に荷物を詰め込む。

   続いて室内に入る。 先ず、目に付くのは、天井に張られたメッカの方角を指し示す矢印。 (そう、ここは敬虔なイスラム教徒の特別州なのだ。) ベッドや照明も、まあ問題ない。 バスルームをチェックする。 ここは、しっかりと見ておかなくてはならない。 今後、桃の会をはじめとする、日本の女性方が訪問する際に、とても重要なポイントだからである。 早速、バスルームの扉を開く。 想像していたよりとても綺麗で、なかなかの造りであった。 が、実際使用してみて感じた点を2つ。 お湯が出るのは非常に有難いのだが、換気扇がないのですぐにバスルームに湯気が充満しベタベタになり、不快である。 それと、トイレの消臭スプレーを持参すること。
   インドネシアでは、汲み置きの水で体を洗い、炊事をし、洗濯をし、その横で用を足し、そして流す。 汲み置きの水が、古くなって濁っているのも全然普通のことである。 年中暑い国ではあるが、一般家庭ではお湯などある訳がない。 習慣とは恐ろしいものである。 この国では、それで全く問題ないのだから・・・。
   津波をきっかけに、外資系の企業が参入し始めているアチェ、さて今後はどんな街に変貌していくのだろうか。 願わくば、自然と共にあるその逞しさは失わないで欲しい、と思う。



  ↓ メッカを示す天井の矢印と、バスルーム。


ロスト・チルドレン・オペレーション
   ↓ スタッフと腹ごしらえ。    ↓ 我らの救世主アクア。Black & Yellow。    ↓ オランダNGOが建てた災害孤児施設。
誰が支援しようが管理しようが、インドネシアやアチェが良くなってくれればそれでいいのである。
   かつて、この国は第二次世界大戦中、オランダの植民地であった。 終戦を迎えて尚、祖国へ帰らず、独立を望むインドネシア人と共に命を懸けて戦った日本人がいたからこそ今のインドネシアがある、という歴史を振り返ってみると、なんとも数奇というべきか、その両国が協力し合ってインドネシアを支援するということに感慨深さを覚えずにはいられなかった。
   また、我々の滞在期間と全く同じ日程で、オランダの団体の理事であるレオンさんが来ていたのであった。 偶然(本当は必然)のタイミングの引き合わせに、双方、非常に喜び合い、今後の支援について時を忘れて、熱い思いを語り合ったのだった。
   現在、6名の男の子がこの施設で生活している。 今後は、彼らがアチェやインドネシアの未来を切り開く人材となっていってくれるよう、様々な支援を展開していく予定である。 今回の訪問の際、現地で我々の代表として活動してくれているアデの提案で、子供たちに幅広い良識を身に付けてもらうためにと、衛星放送の受信設備を、また、LCOとの円滑な情報伝達のために、インターネット通信設備を構築するための費用を「良心、市民の会」の方から寄付させてもらった。 オランダの団体は、近々、女の子のための災害孤児施設の建設に着手する予定だ、ということだった。


   部屋で打ち合わせを済ませた我々は、ホテルのレストランで腹ごしらえをした。 面白いことに、インドネシアの料理はなかなかどうして日本人の口に合うようである。 イスラムなので豚肉は出ないものの、牛・羊・鶏、そして魚と、肉が中心の料理でかなりヘビーだが、味付けがシンプルなせいか、旅の全行程、殆ど抵抗なく頂けた。 できれば、もっと野菜や果物を沢山摂りたかったが、そういう料理には殆ど出会わず、また、出てきたとしても水道水で洗っていることが想像に難くないので、よかったと思う。 問題は、飲み水である。レストランなどでコップで出される水は、間違いなくヤバイ。 まともに臭い。 胃腸の訓練と思って飲むのもよしだが、ここで調子を崩して倒れてしまったら、何をしに来たのか分からない。 そこで、我々の救世主登場、現地のミネラルウォーター、アクア。 いつでもどこでも一緒であった。
   食事を終えた我々は、オランダのNGOが、日本円にして約2千万円を出資して建設したという災害孤児施設を訪れた。 前回訪問した際はまだ建設中だったということで、今回訪れたときには、既に子供たちもそこで暮らして、施設として機能し始めていた。
   ここを管理しているのはLCOである。LCOとは、ロスト・チルドレン・オペレーションの略で、震災直後から我々が支援している団体である。 スタッフは数名、と少ないものの218人もの災害孤児のデータを預かり、ローカルのNGOとしては、その活動に対する評価は決して低くない。 そこに、このオランダのNGO団体が現れて、LCOの活動支援に参画してくれることになり、この施設を建設してくれたのだった。 この団体の背景には、オランダ政府企業学生団体などが名を連ね、名実共に実力があるのだ。
   ここで、我々がひとつ注意しなくてはならないのは、 「LCOは我々の支援する団体であっても、我々の所有物ではない。」ということである。 沢山の心ある有志や団体が、共に手を取り励ましあって事にあたる姿こそ、おかみの本願である、ということ。

   ↓ レオンさん(左)と熱く語り合う。    ↓ 子供たちとレオンさんと共に。

津波の脅威
   翌日からはアチェの各地を回り、今も残る津波の傷跡を取材した。 津波で流されてきた船が、家屋の上に乗っかったままとなり、崩れやしないかと不安に苛まれながらも動かすこともできず、困っている家族のところへ。 政府は、津波の恐ろしさを忘れないための博物館にする、と言ってくれたそうだが、未だに何のリアクションもなしだそうだ。 しかし、よくもまあ見事に家の上に絶妙のバランスで留まっているものだ。 余りの物珍しさに、遠くからいろんな人が見物に来るのだそうだ。 船の上からの景色は、とても見通しがよく気持ちがいいのだが、展望用に作った訳でもないので、船の上に登るのは一苦労である。 吊るされたロープをつたって、自力でよじ登らなくてはならない。 身軽で腕力に自信がなければ上がるのは無理だろう。 あと、結構な高さなので高所恐怖症の方は止めた方がいい。 私は撮影担当なので、せめて映像で皆さんにこの風景を伝えねば、と思い船の上へと登った。 なるほど、なかなか素晴らしい景色である。周囲に景気を遮るものがないため、遥か遠くまで見渡せる。 しかし、視点を変えればそれだけ津波の被害が大きかったことを窺い知ることができる。 よく見てみれば、周りは殆ど建て直し中の家屋ばかり。 倒壊したままのものも少なくはない。 早く、古き良き田園風景と共に笑顔で暮らすアチェの人々を見たいものである。
   さて、次に向かったのは海岸から数Kmに亘って建造物をなぎ倒しながら流れてきた、超巨大なタンカーが打ち上げられているという場所。 ここもまた、ひとつの名所的な場所となっていて、沢山の人が一目見ようと訪れてくるそうだ。 6メートルはあろうかという梯子を上って甲板へ。 更に、階段を上って一番高い所へ出た。 これまたなんと素晴らしい景色であろうか。 こんな美しく広大な一帯が昔と変わらず、開発もされずに残っているのは、伝統的な生活を大切に自然と共に生きてきたアチェの人々の人柄によるものなのであろうか。 様々な天災人災に見舞われながらも、明るく逞しく生きるアチェの人々。 特に子供たちの無邪気さと笑顔には、本当に癒される。 行き交う人々も、とても気軽に笑顔で声を掛けてきてくれる。 不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、物珍しそうに我々を見つめる人たちも、挨拶をすると満面の笑顔で返事が返ってくる。 そのギャップには、本当に笑ってしまう程だ。 素朴に素直に生きているんだなあ、と暖かい気持ちになる。 そして、思う。 近代化を促すことが本当の支援ではないと。 この国に応じた、この国の良さを活かした、また、良さを失わないための自立復興支援が必要なのだということを。 長い目で見守りながら、また我々も沢山のことを学んでいるのである。 感謝、感謝のアチェ訪問であった。


   ↓ 再建中の家屋。    ↓ 無邪気な子供たちの笑顔。
   ↓ 津波で家屋の上に乗った船。    ↓ 今もそこで暮らす家族。    ↓ 船からの展望。    ↓ 津波で流されてきた巨大なタンカー。    ↓ タンカーの甲板に上る。    ↓ タンカーは遥か向こうから流されてきた。

遠い国の大家族
   ↓ 深い森の中に現れた一軒家。    ↓ ウェタちゃんの家族。    ↓ 謎のジュースと野生の小鳥(本物)。    ↓ みんなで記念撮影。    ↓ フォウジの家族と。


   津波でお父さんを失って心に深い傷を負ってしまったウェタちゃんという女の子がいる。 彼女もLCOが管理するリストの中のひとりである。 美しい田園風景を眺めながら、整備されているはずもないデコボコの道をPAC号でシェイクされながらひたすら深い森の中へと走っていくと、突如視界が開け、その先には一軒の高床式の家が現れた。 まるで、ウルルン滞在記にでてくるようなロケーションだ。 家へと繋がる木の間の道を歩いていくと、中からウェタちゃんのお母さんと兄妹たちが出迎えてくれた。 中へお邪魔すると、ウェタちゃんは恥ずかしがって部屋から出てこない。 お母さんに呼ばれるままに部屋へと入っていっても、うつむいてこっちを向いてくれない。 前回のときもそうだったらしい。 困ったお母さんをなだめるようにして、リビングで近況報告を伺う。 我々の支援のお陰で学校にも行けるようになったのだが、生活は相変わらず苦しく、これから子供たちみんなをお母さんだけで養っていくのはかなり難しい、という話だった。 そこで我々はこの家族に自立のチャンスを与えることにした。 職につけずに将来に不安を持つ長男に、亡きお父さんの跡を継いで牛飼いになって生計を立てるチャンスを。 ここでは、牛一頭が2万円で買えるそうで、それを育てて売れば2倍で売れるそうだ。 それを元手に牛を増やしていけば、なんとか家族を養っていける。 LCOのスタッフからその話を聞いた我々は、彼に牛一頭を購入する資金として2万円を寄付した。 お母さんの顔に満面の笑みがこぼれた。 子供たちもうれしそうだった。
   ソウル空港で大量に購入した韓国のりをお土産として、この家族にもプレゼントした。 初めて見る食べ物に躊躇していた子供たちも、一口ほおばるとその美味しさにハマッてしまったようで、次々と食べてくれた。 そして、我々は歓迎されて出された謎の黄色い飲み物を飲むべきかどうか、随分悩んだのだが、せっかくのご好意に応えなくては、と腹をくくり、グビッと飲んでみた。 ん〜、甘い。 この不自然な黄色さと甘さは、体に悪いに違いない。 水に対する不安よりも、このジュースの成分が気になった。
   しかし、お陰さまでお腹を下すこともなく、最後はみんなで記念撮影をして帰ってきた。 次に来る頃には、お兄ちゃんは立派な一人の牛飼いになっていることだろう・・・。
   その晩、LCOのリーダーであるフォウジのお宅へお邪魔した。 津波で旦那さんを亡くしたフォウジのお姉さんとその子供たち、兄妹で一緒に暮らしている。 近所に、キリスト教関連の団体から無償で譲り受けた施設を使って医療施設を開設したいのだが、その設備投資・開業資金の相談に乗って欲しい、ということであった。 お姉さんは看護婦で、アチェの人々にちゃんとした医療サービスを提供したい、という奉仕精神が根本にあるので、真剣に相談に乗ってゆくことになりそうである。
   余談ではあるが、インドネシアのお菓子は美味しい。 フォウジ家で振舞われたアチェの伝統的なお菓子は、日本で製菓会社から販売されているお菓子にも負けないと思う。 それがまた、コーヒーと合うのである。 できれば、日本に帰ってゆっくりこのお菓子をつまみながら、もくれんのコーヒーを飲みたいものだと思った。

   遠いアジアの国の仲間たちの笑顔、こんなところにも私たちの大家族ができつつあることを、とても嬉しく思う。 「良心、市民の会」は、大家族の笑顔のためにこれからも走り続ける。

海岸線を行く
   次の日は、主に海岸線沿いに移動した。 先ず、真っ先に向かったのは、スマトラ島の最西北端、その名もポイントゼロ。 せっかくアチェまで来たのだから、地理的に記念すべき場所を取材して帰りたい。 私には、被災地の現状と、活動状況の報告という2つのテーマの他に、アチェの美しい大自然を撮るという使命もあったのだ。 日本へ持ち帰った写真は、PACバンド(ボランティアメンバー有志で結成されたバンド)のPho'nic(フォニック)と称する、演奏語りスライド写真との融合による発表に使われる予定なのだ。 この取材のために、やや高額なデジタルカメラの購入も決断した。 知識にも乏しく、腕もまだまだ未熟ゆえ、感性の出たとこ勝負で、シャッターを押しまくった。 ここで紹介できる写真はほんの一部だが、例えわずかでもこのレポートを読んで下さった皆さんにアチェの雰囲気を感じ取って頂くことができたら嬉しい。
   さて、次は海岸線をひたすら奥地へ進み、ウジュンパンチュという所へ向かった。 ここはアチェの中でもかなり奥地で、外国人が観光でくることはないらしく、もしかしたら我々が始めて取材でここに来た外国人かもしれない。 とのことであった。 さあ、一体どんなロケーションが待っているのか。 ウェタちゃんの家に向かった時よりも更に遠く、更に激しく車は揺れる。 「本当にこの車、大丈夫か?」 今朝もホテル出発の際、押し掛けをしたばかりである。 もし車のタイヤが外れたとしてもおかしくはないようなそんな道をひたすら奥地へと進んでいった。 車の窓を流れる景色には、雄大で美しい自然と共に、津波で根こそぎ倒されてしまった椰子の木の残骸が至るところに散らばり、他には所々、大破した漁船が目に付くくらいで辺りには全くなにもない。 どうすれば、どれくらいのパワーの津波なら、こんな風景を作り出すことができるのだろうか。 人間の想像できるパワーの限界を遥かに超えているのであろう、イメージすることすらできずに、ただボーっと途方に暮れるのみであった。
   山手の方にも目を向けてみる。 豊かな緑、そして美しい稜線で連なる山々。 太古から犯されることなく静かに護られてきた聖域。 あの津波は、この国に迫り来る穢れを祓い清めるための禊ぎであったのであろうか。 手付かずなのに、異様に逞しく、何かの意志を感じさせる、そんな景色に見つめられながら、お連れ通りを賜り辿り着いた最奥の名も無き海岸。 車を止めて獣道を数分行くと、海岸に降りていく小道があった。 我先にとカメラを片手に駆け下りる。 と、現地の若者が2人、釣りをしていた。 邪魔にならないよう裏手に回りながら、おもむろにシャッターを切りまくる。 「なんだ、この変な日本人は・・・。」 そう顔に書いてある若者をよそに、ひたすらしっくりくるアングルを探す。 間もなく「出発しよう。」との声がかかる。 そう、限られた日程の中でできる限りの予定をこなさなくてはならないのだ。 この海岸にいたのはほんの十数分だったろうか。 Pho'nicのイメージに合う写真が撮れていればいいのだが、と思いながら釣りをする青年たちに軽く挨拶を交わし、足元に無数に転がる小さなサンゴ礁をポケットに詰め込んで、車に戻った。
   LCOのスタッフに聞くところによると、この一帯は、インドネシア政府と抗争を続けていたGAM(アチェ独立推進派)の基地があったという。 どうりで力強い何かが隠されているようなエネルギーを感じる訳である。
   インドネシア政府とGAMの抗争は、皮肉にもスマトラ沖地震を機に停戦となり、実質、GAMは解散した。 しかし、当時、アチェのアイデンティティのために我が身を捨てて戦ったGAMの戦士は、今でも地元の人々から厚い信頼を受けている。 スマトラ沖地震で注目を浴びたアチェではあるが、独立抗争で犠牲になった人々や被害者を差し置いて、真の復興支援はあり得ない。 陽気で無邪気なアチェの人々の笑顔の後ろにある悲しみを理解しなくてはならない。 この地から悲しみの歴史が消え去って、真にアチェというアイデンティティを、アチェの人々の手によって確立される日が来ることを心より祈っている・・・。



   ↓ 海岸の風景3。
   ↓ ポイントゼロにて。    ↓ シンボルは太陽に向かってそびえ立つ。    ↓ 対岸を指差し説明するLCOスタッフ。    ↓ 津波の通った跡には、何も残らない。    ↓ 力強さを感じさせる大自然。    ↓ 海岸の風景1。    ↓ 海岸の風景2。

共に手を取り合いながら
   ↓ シアクアラ大学にてシャフェイ教授と。    ↓ アチェの空港にてLCOの仲間たちと。    ↓ 朝日新聞ジャカルタ支局のスルヤさんと。    ↓ 福祉友の会の皆さんと。    ↓ 実業家のミミスさんと。    ↓ 至るところに友人のいるアデ。    ↓ 忘れ得ぬ仲間。


   海岸線を取材したあと、次に向かったのはアチェの郊外にあるシアクアラ大学。 先ず、ここを訪れることになった背景を語らねばなるまい。 実は、ジャカルタからアチェに向かう際に国内便の手配がスムーズにゆかず、何故か待ち時間が発生してしまった。 その時に、何気なく会話をした初老の男性が実はアチェの方で、大学の教授というではないか。 我々がスマトラ沖地震の災害復興支援のため日本から来ていてこれからアチェに向かうことを告げると、非常に興味を持たれた様子で、互いの名刺を交換して別れたのだった。 そして、なんと我々がアチェを経つ前日に連絡があり、大学で会うことになったのであった。 大学の教授室に通された我々は、シャフェイ教授と共に、アチェについて語り合った。 「今後、どういった協力関係を築いていけるかはまだよく分からないが、力になれることがあったら何でも言ってきて下さい。」 という心強いお言葉を頂き、記念撮影をして帰ってきた。
   翌日、我々はアチェを後にした。 空港でLCOの仲間たちと記念撮影をし、再会を誓って飛行機に乗り込んだ。 メダン経由で首都ジャカルタへ。
   夕刻よりは、朝日新聞ジャカルタ支局のジャーナリスト、スルヤさんとお会いすることになっていた。 スルヤさんは長い間、日本で学んでいたこともあり、言葉はおろか仕草や立ち居振る舞いまでもまるで日本人のようであり、ジャーナリストとしての鋭い観察力と知性を感じさせる方である。 我々は、海外の一災害復興支援団体では知ることのできない、インドネシアやアチェの現実や、今、直面している問題など多岐に亘り非常に貴重な情報とアドバイスを頂いた。 インドネシア政府とのアチェの独立抗争で被害を受けた人々に対する支援が全く行われていないこと。 当時のGAMの幹部も今では商売人となって裕福な生活を送り、今後のアチェのことなどもう考えていないこと。 アチェの最大の産業は、世界最高峰の麻薬の栽培であること。 我々が泊まったスルタンホテルは、震災前まで、娼婦たちの呼び込み宿であったこと・・・。etc。
   全く無知なまま現地に来ている自分が恥ずかしいと思うほどの複雑な事情ばかり。 これらのことを知らずして、ただ災害復興だけを目指してもこの国は根本的には何も変わらないのだ、ということを痛感した夜であった。 果たして、我々は一体どこに向かってゆくのだろうか。 踏み込んだ世界の複雑さに、これからの道程の険しさを感じずにはいられなかった・・・。
   翌日は、福祉友の会の事務所にお邪魔した。 この団体は、第二次世界大戦終戦後、祖国へ帰らず、インドネシア独立のためにオランダ軍と戦った残留日本兵の方たちで作られた団体で、当時約2千人はいたといわれる方々も、今では高齢のため数名しか残っておられない。 なんとか、我々が生きてきた歴史の真実を後世に伝えたい、と必死に訴え続けておられるのである。 彼らは、かの大戦を大東亜戦争と呼び、西洋に通用する大東亜文化圏を造るために命を懸けて戦った。 戦争に良いも悪いもないのだが、協力し合って営んでいけるアジア文明共同体を作ろうというのがこの戦いの本分であった。 悲しいことに各地で虐殺が行われ、終戦後60年以上経った今でも、その傷跡の深さに、世界は未だに手をつなげずにいる。 古来より、「和を以って貴しとなす。」を信条として生きてきた我々日本民族。 今こそ再び迷える世界の指針となって立ち上がるべきなのではなかろうか。 残留日本兵の方たちの精神を学び、調和したアジア、ひいては世界を実現しゆくために、「いま、わたしたちにできること」を草の根レベルで実施していくことが求められている。 但し今度は、対話と愛を以って・・・。
   午後からは、インドネシアでも有名な実業家で、この国を良い国にしていこうと、Social Activityに取り組んでおられるミミス女史のお宅にお伺いした。 ミミスさんと晃月は旧知の仲で、そのご縁を引き継ぎ、良いお付き合いをさせて頂いている。 今回は、我々の活動の報告と共に株式会社湧輝の生業に関しての打ち合わせのためお伺いした。 加古川氏は湧輝の社長という顔も持ち合わせているのだ。 広く社会に貢献してゆける物心両面の基盤をつくるため東奔西走している。 そう遠くない将来、この地道な努力が身を結び、おかみの思うところとなって、大きく花開いてゆくことを心より願っている。

   この旅を通じて非常に沢山の貴重な出会いを頂いた。 この活動の芯となって単身幾度もインドネシアに渡り、我々の支援の道筋を拓いてきた理事の加古川氏の功績は決して小さくはない。 しかし、それも晃月が長い年月を掛けて築いてきた信頼と人の絆なくしては実現し得なかったことである。 我々は感謝を胸に進ませてもらわねばならない。


◆◆ 最後に ◆◆

   今回、インドネシアを訪問させて頂いてまず感じたのは、「日本という国はなんと恵まれた国なのだろう。」ということであった。 まさに奇跡のような国である。 一体、何が違うのだろうか・・・。 私にとっては、アチェよりもジャカルタの方が衝撃的であった。 高層ビル群が立ち並ぶその横に、ボロボロのバラック小屋が立ち並び、その前の通りを無数の高級車が通り過ぎていく。 完全に経済を海外資本に操作されているので、国民なのに非常に立場が弱い。 失業率の異常な高さ故、地方から職を求めて首都ジャカルタに出てくるものの状況は変わらず、余りの生活苦に売春や麻薬の売買に手を染めていく。 そして、どんどん経済を牛耳る外国人はこの国を食い物にして、更に贅沢な暮らしに身を浸す。 その日を生き抜くことと諦めることを身に付けて、人は本来、すべて神の子であるという真理から遠ざかり、世界を絶望の淵へと誘う。 私は、思った。 「いっそ、この世界は滅んでしまった方がよいのではないか?」 そうすれば、これ以上神の名を汚すこともなく、人々の苦しみも全て消え去るではないか。 もしかして神は、それを気付かせるために私をここへよこしたのか。 と、いろんな思いに駆られ、一体何が正しい判断か、ということさえもしかしたら存在しないのではないか、とまで思った。 私は、この現状を目の当たりにして「これからどう生きるべきなのか。」と自問自答を繰り返していた。
   帰国して数ヶ月経って今思うのは、「時代は、救世主を必要としている。」 ということである。 民衆の中から立ち上がり、愛の名のもとに全ての人の萎えてしまった心に火を灯す救世主が必要なのだと。 そして、それは誰でもないあなただと思うのである。 己の良心を輝かせ、生きることに絶望する人々の心に明かりを灯しゆく救世主になるため、人は地上に生まれてきているのではなかろうか。 神々が絶望して、この世が滅ぶその日まで、我々は、諦めず人間の平等と尊厳を訴えていかねばならない、と今改めて思うようになった。 歴史上の偉人から学ぼう。 不可能を可能にしてきた偉大な先人の智恵と精神を受け継いで、今こそ立ち上がる時だと重ねて訴えたい。

   この度の、このインドネシア訪問の機会を私に与えてくれた、晃月並びに神諭会の皆さん、そして、「良心、市民の会」に心より感謝の意を表します。 本当にありがとうございました。


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